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特集記事アーカイヴ Issue 2004.5-6

この10年、ずっと詩のことを考えながら小説を書いていた。
ねじめ正一インタビュー

Interview: PCT編集部

■詩の朗読を始めたころ

H氏賞を『ふ』でとったとき、「あれ、これひょっとしたら駄目かもしれない」ってなぜだか思ったんですよね。叙情的なものとメッセージみたいなものと上手にバランスとりながら書けたことは書けたんだけど、どうもこの詩集は自分らしくないなっていうのが出版してからわかった。「これじゃいけないな、じゃあどういう詩を書きたいのかな」って思ったときに、鈴木志郎康さんの「プアプア詩」をもっとストレートにして、日本語としても非常に壊れてるような詩を書きたいと思ったんですよね。ちょうどそのころ、中野にあった「文学学校」ってところで志郎康さんが講師をやってたんで、胸を借りるつもりでそこに通ったんです。

同じころ伊藤比呂美さんに偶然出会ってね。一緒に志郎康さんの教室に通ったりもしてました。彼女は詩の朗読を既にやってたね。

それで伊藤さんに「ねじめさん絶対おもしろいから、絶対朗読あってるから」って騙されて朗読会いったんですよ。お客さんはそんなに来てなかったんだけど、そこで『ヤマサ醤油』読んだのかな。そしたらもうバカウケだったんだよね。なんだか知らないけど、なんでこんなにウケるの?って。それが嬉しくて。「奥さん」って一言いうと、ワーって。一つ一つ反応があるんですよ。
伊藤さんの朗読はすごくよかった。自分を突き放して、伊藤比呂美の肉体、伊藤比呂美の身体からでてくるものとして、全く違和感なかった。伊藤比呂美そのものだな、って思いましたね。

伊藤さんは、素を演じることがうまかったんだね。妙にすごんでないし、作ってない。詩の朗読ってちょっとでも作られるとダメだから。しかもちゃんとお客さんに向き合って朗読してる。あのころの伊藤さんの朗読以上の朗読は聴いたことはないね。

志郎康さんは詩人でありながら実験映画もやってて、伊藤さんや僕も出演してたんだよね。志郎康さんが一回、スッポンポンで朗読してくれっていうんで、ねじめ民芸店の包装台の上に乗ってやったんです。カメラがあって、スッポンポンだとすごく肉体が負けるんだよね。朗読してるうちにだんだん、こう、背中が丸まってくる。恥ずかしいからね。でもそこで恥ずかしがってはいけない、カメラに負けちゃいけないと思ってグーと背筋を伸ばして読んだり。福島の列車の中でもまたスッポンポンになって朗読して、お客さんいる前だから恥ずかしくてまた背中丸まって、でまた背筋をグーと伸ばす。そんなことしていると、いかに自分の肉体と言葉が関係あるかっていうことがすごくよくわかったよね。

■詩の言葉のほうが、時代の一番先っちょを触ってる

僕にはやっぱり今の時代にとって過激とは何か、過剰とは何かということを言葉として書いていきたいという気持ちが強くあるんです。
今度出す詩の本は、一人の女のコが放火はやるし、万引きはやるし、売春はやるし、最後に母親は食っちゃうし、父親も食っちゃうし、最後にげっぷすると月が腐って落ちてくるというもので、その一つ一つの過激なシーンを具体的に書いたんですね。

過激って具体的じゃなきゃいけない。観念的であってはならないと思っている。だからどういう風に姿として見せていくかが難しい。延々時間のかかる作業で、だいたい原稿用紙20枚くらいの詩なんだけど1年くらいかかってるんですよね。

僕が『脳膜メンマ』って詩を出したときに、とにかくおれがそのとき一番過激だと思って、マラに鉄条網巻いて、東京宝塚劇場の、ヅカガールに飛び込んでいって、やりまくっちゃうっていう、そういうのを書いたんだけどね。もう今さらそういうのって過激でもないし。だいたい、マラに鉄条網巻くっていう、マラをモノにしていくっていうこと自体が過激でも何でもないって思うんですよね。

例えばオウム真理教の地下鉄サリン事件があったり、その前に佐川一政が人食っちゃったり、なんか自分が詩に書こうとすると、時代や世の中のほうがなんか過激になっちゃうからね。人を殺しても食っちゃえばわかんないだろう、と新聞に出てたりすると、表現としては、こりゃもう負けたよなって。

90年代、過激を突っ走るってことが『脳膜メンマ』と『これからのねじめ民芸店ヒント』書いたあと見えなくった、どうやって詩を書いていいのかわからなくなっちゃったって時期がやっぱりあったよね。

それで小説のほうに行ったんだけど、でも小説を書きながらもやっぱり過激ってなんなんだろうってずっと考えてたね。それも特殊な人たちに向く過激さじゃなく、一般の時代状況や、今の過激さ、そういうものをずっと考えてた。やっとここへ来てさっきの月が腐るところに到達できた。その間ぜんぜん考えてなかったわけじゃないんだ
よね。

そういういうことを思いながらずっと小説を書いてた。もっと言えば、この10年以上、詩のことを考えながら小説を書いてた。小説の言葉ってそれほど表現として新しいものだとは思ってないんですよ。きっと詩のほうが、時代の一番先っちょを触ってるっていうのは今でも思ってるしね。


■声が霧のようにパラパラって散っていく朗読が理想。しかも一番危険。

詩って壊れなきゃいけないと思うんですよね。積み上げたもんが最後はひっくり返っちゃうみたいにね。言葉を埋め過ぎちゃって、詰め過ぎちゃうと壊れちゃう。破綻しちゃうんだよね。そこまで詰め込まないとダメってことですよね。 『これからのねじめ民芸店ヒント』なんてもうぐっちゃぐちゃ、ことごとくゴッタ煮のようなところがある。

それもやたらにめちゃめちゃ詰め込むんじゃなくて、ある程度計算して、ここもうちょっと空いてるな、ここもうちょっと刈り込もうとかしながら、隙間を埋めていく。我を忘れてもう子供がなんか砂遊びしてるみたいな感じになってどんどんどんどんやってるうちに壊れていくという。

朗読もおんなじでさ、やっぱりその物語を延々こう、なんか語り上げてそこで皆さんに意味が伝わって「ああ、いい話聞いた」ってんじゃなくって、やっぱり言葉が壊れてくるさま、 それをおれは朗読で見たいんだよね。変なもん見ちゃった、いままで見たことのないものを見ちゃったって瞬間がほしいんだよね。

だから朗読に関しては、詩の内容がどうこうとか、詩がいいとか悪いとか、そんなことはどうでもいいってことですよ。壊れてるところを見せてくれれば、そりゃもうどんな言葉でもなんでもいいってところがあるんですよね。で、なかなかその壊れてる瞬間が見ることができない。

壊れている瞬間をつくるためにも、やる方はいつも初めてやるような気持ちでやらないと、詩の朗読はあんまりやる意味ない。芸として重ねるもんじゃないよね。要するに定型化されちゃダメ。壊れない。

『かあさんになったあーちゃん』なんて、おれもう100回くらいやってるのかな、でもいつも読むとき真っ白で読んでて、今日はあーちゃんの心がうまくつかめたな、とかダメだったな、とか。そういう風に真っ白な気持ちで読める詩は、おれの中ではいい詩なんじゃないかなって感じがしますよね。

それとやっぱり、朗読ってのは身体的な快楽。魔力じゃないけど、声を出して、その声が脳に響いて、それがぐるんぐるん回って身体に響いて敏感に察知できて。これはひとつの快感としてはすごく大きいものだと思う。私にとってはセックスなんかよりも100倍いいね。

もともと運動部だっていうこともあって、詩は活字で書くだけじゃ完成しなくて、全身使って朗読をして、はじめて完成するものだと。だから朗読するっていうことも僕の中に特別なものとして持っていた方がいいと思ったんですよね。ものすごく気持ちが開放されたし。

迷路に入ってたとき、思いっきりジャンプできて、ジャンプしながら、詩の朗読してるねじめ正一が上から客観的に見えた瞬間があるんですよね。それもまた快感で。ところが1週間も2週間もするとまた迷路入っちゃう、なんかまたわかんなくなってくる。朗読するとまた見えてくる。ジャンプをすることによって、一番ねじめ正一らしい瞬間を、持てることができた。

きっと、もともと僕自身の体質の中に、朗読にむいているものが一番大きくあるんだと思う。ひょっとしたら小説とか詩よりも一番おれの才能としてあるのは朗読ではないかと。活字ではなく、おれ自身の身体そのものが朗読にあっている。朗読だけで食えたら、ほんとにそれでもいいかな。食えなくてもどんどんやるよ。

朗読しているときに、こう……霧? 霧散っていうか、声がパラパラって散っていくっていう感じ、それもメッセージとかそういうことじゃなくって、パーって。声そのもの……そういうふうになる瞬間があるんですよね。それが一番理想じゃないかな。しかも一番危険だと思う。そういう霧散する言葉ってSARSじゃないけど、強いと思うね。

子供のとき、10人ぐらいで石を投げ合ったことがあったんですよ。当たったら大ケガするんですけど、集中しているから投げられてくる石を自分が取って、その取った石を投げ返したりしたんです。頭から血を流したこともあったけど、 あの集中力って朗読しているときの集中力とそっくりなんです。野蛮になれるんです。本当に朗読だけで食えたらいいのになあ。

2004年3月6日 阿佐ヶ谷「珈司」にて  写真:大池直人



ねじめ正一 Nejime Shoichi

作家。1948年6月16日、東京に生まれ、昭和56年、処女詩集『ふ』で詩壇の芥川賞といわれるH氏賞を受賞。主な詩集に『脳膜メンマ』『これからのねじめ民芸店ヒント』『ニヒャクロクが上がらない』など多数。平成元年、初めて手懸けた小説『高円寺純情商店街』で、101回直木賞受賞。絵本も『しゃくしゃくけむしくん』『あいうえおにぎり』など多数あり。子供の仕事にも意欲的に取り組んでいる。スポーツは野球好きで、長嶋茂雄氏の大ファン。長嶋さんに関する著書も多数ある。近著に『言葉の力を贈りたい』NHK出版、『天使の相棒』集英社。2004年、待望の新詩集を刊行予定。
ねじめ民芸店 http://www12.plala.or.jp/nejime/


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